勝田銀次郎年表
|
|
|
解 説 |
| 明治6(1873)年10月1日 |
銀次郎には二人の姉がおり長女イチは村田家の養女となり二女ヨネは中川家に嫁ぐ。
イチは困った人を見ると知らぬふりを出来ない性格で少年銀次郎の将来に継る大きい影響を与えた。
二女ヨネも広島で証券会社を経営、独立当初の勝田商店を支援した。
祖母ツギは旗本の娘ということである。
 |
|
明治24年(1891)の松山中学校
|
銀次郎は旧制松山中学で司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」主人公の正岡子規、秋山真之より5年後輩にあたる。
同中学では俳人高浜虚子、川東碧梧桐と同級生。
済美学園創立者の船田操とその兄白川義則大将・元帥等、「肉弾」の著者櫻井忠温陸軍少将も近所に住んでいた。
|
|
|
愛媛県松山城下唐人町(現、松山市大街道一丁目三番地三銀天街入り口)で米穀商の家に父林次郎、母ムメの長男として生まれる。
(大街道商店街と銀天街の交差する松山市の一等地) |
 |
 |
勝田家 家紋
(相良紋)
|
|
|
| 明治24(1991)年 (18才) |
小学校を卒業してから家業を手伝いながら松山中学に通った。
同高では俳人高浜虚子、柳原極堂と同級生、後に極堂の経営する「伊予日〃新聞」で給料を払えず勝田に借金を頼んだときに勝田自身も大戦後の不景気で会社を閉じ財務整理をしていたにもかかわらず、すぐに千円出した。 |
|
銀次郎は18才で風雲の志を抱き松山中学を卒業すると同時に松山を後にし、北海道を目指して旅立つ。
明治23年9月27日、銀次郎故郷出奔1年前、林次郎53歳で死去。
墓標は先祖代々の墓、妻ウメと共に松山市柳井町の法龍寺に建立されている。 |
|
銀次郎国際人と博愛の精神を学ぶ |
「評伝勝田銀次郎」によると一路東北へ北海道に向かう汽車の中で、東京英和学校長(現、青山学院大学)、本多庸一と隣合わせになる。
|
本多庸一院長
1949年1月7日 〜 1912年3月26日)
|
|
父は弘前藩士。明治5(1872)年留学先の横浜で受洗し、伝道を行う。7年東奥義塾塾頭になり、8年に弘前日本基督公会を設立。自由民権活動にも従事し、15年青森県会議員に当選。19年議員を辞職し、メソジスト派の牧師となる。21年米国に留学。23年帰国し、東京英和学校(後の青山学院)長に就任。
|
|
※出典 本多庸一先生遺稿
|
|
列車で隣り合わせになった銀次郎に新天地開拓の抱負を聞いた本多校長は、銀次郎の無謀をいましめ東京英和学校に入学することを奨め世界に雄飛するためには英語を身につける大切さを説き、もしその気があれば学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に手渡した。
そして銀次郎はその足で東京に向かい、1891年~1894年、青山学院を改称する直前の東京英和学校に学んだ。
銀次郎は、実家の仕送りに頼るわけにも行かないので学内の小間使いや、新聞配達など課外のアルバイトで生活でまかなった。
当時東京英和学校は、関西でいえば新島襄の同志社と同じキリスト教系の学校で広い構内にまだ2棟の校舎と新築の寄宿舎があるだけだったがこの後の勝田の人格形成に影響を与えた、キリスト教信仰による博愛主義や欧米流の合理的な思考を学ぶことができた。
銀次郎は外国の文化・知識を身に付けることができたが国語、漢文が優秀で訳読、数学、物理は不得意な学生だったようである。
|
| 明治27年(1894)21歳 |
|
次に銀次郎は実業界に挺身し、大阪・神戸において貿易海運業に身を投じた。
|
明治27年(1894)日本は清国政府に宣戦を布告、日清戦争が始まった。
銀次郎は 従軍記者になりたいと「従軍記者になって前線の様子を伝えたいと高等部2年で中退。
残念ながら従軍記者にはなれなかった。 |
|
明治29年(1897)25歳
|
|
|
大阪中之島の貿易会社・吉田商会の社員となる。
同社は程なく解散となる。
足立輸出入会社に入社のため神戸に来る。
|
世は貿易海運発展の情勢にあった。 |
| 明治33年(1900)年29歳 |
|
銀次郎は独立して神戸栄町通に「勝田商会」を創業。
|
日露戦争後は同業者とウラジオストク航路を開設。
運送中継ぎ船舶代理業の阪神間総代理店となり活躍した。
本籍地を松山の生家から神戸に移し この異郷の港町に骨をうずめる決意を固める。
|
|
明治44(1911)年38才
|
|
母のムメ死去。80年の生涯だった。
現在も法龍寺境内墓地には銀次郎が建立した勝田家先祖代々墓と父林次郎・母ウメの墓がありご子孫はお守りしている。
|
松山市柳井町にある父の眠る柳法龍寺の墓に納骨
|
| 大正3(1914)年41歳 |
|
、第一次世界大戦勃発
※第一次世界大戦1914~1918 |
海運業界が未曾有の活況を呈する、運賃・船価は暴騰し大型船は重量トン当たり100円から800円にまで跳ね上がった。時流に乗った銀次郎は一気に我が国海運業界の指導的立場にのし上がる。
「神戸海運50年史」
勝田商会は大正元年御代丸を購入、4年海福丸、永代丸、井出丸、興安丸の4隻を買取、海永丸、海祥丸など3隻を建造、11年には10隻6万7千トン、最盛時には20隻15万トンの商船隊所有。
|
| 大正5(1916)年43歳 |
|
|
勝田汽船株式会社を設立。
 |
 |
| 旧居留地の海岸通り |
|
手元資金も1億円にもなっていた銀次郎は代表取締役に就任した。
ワンマン肌で気っぷのよい彼が真っ先に「巨船主義」を掲げ神戸船主のリーダー株になった。
 |
| 勝田汽船本社 旧居留地の仲町二十七番地 |
 |
| 勝田汽船東京支店 |
|
| 大正6年(1917) 44歳 |
|
神戸市 市会議員となる。
大正6年(1917) 神戸商船社長就任
|
5期17年間在任この間2回議長を務める。 |
| 大正7年(1918) 45歳 |
|
○大洋汽船社長に就任
○神戸商船社長
○日本船主同盟会理事
○神戸海運業組合長
○大口納税者の為勅撰貴族院議員に就任。
○11月世界大戦終結。
○青山学院大学 勝田ホール落成。
|
勝田ホール
東京駅等を設計した辰野金吾の設計 |
「勝田ホール」煉瓦造2階建、総床面積約2000平方m、ひとつの建物をまるごと寄付する。
院長館の建設費用も寄付。寄付総額31万円。
落成式は陸軍軍楽隊の演奏にはじまり、文部大臣中橋徳五郎、東京府知事井上友一、早稲田大学の大隈重信侯爵、瀬田男爵等が祝辞を述べた。
|
| 大正8年(1919)46歳 |
|
○大洋汽船社長就任
○大洋海運 相談役 、国際汽船 監査役
○大正5年(1916) ○故郷松山市の済美女学會(現在の済美高等学校)校舎「勝田館」として屋内体操場と教室6室を寄贈 当時の金額で1万6千6百4十円也
済美学園100年史の中で船田操女子は「このご厚情は死ぬまで宝物のように大事にします」と述べている。
大正7~8年、銀次郎各方面の公共施設に多額の寄付をする。
(1)松山市三津浜の築港費として1万円
(2)米価騰貴の際救済費三千円
(3)神戸高商講堂一棟及び糸崎小学校建築費1万円
(4)昭和2年 日本赤十字社兵庫県支部へ1万円
(5)俳人高浜虚子、柳原極堂と同級生、後に極堂の経営する「伊予日〃新聞」で給料を払えず勝田に借金を頼んだときに勝田自身も大戦後の不景気で会社を閉じ財務整理をしていたにもかかわらず、すぐに千円出した。 |
|
大正8(1919)年56才、高額納税者として紺綬褒章を受く。
|
大正9(1920)年、47才、1918年に起きたロシア革命後の内戦で難民となった4歳から18歳の子供達及び引率者900余人がウラジオストlックでアメリカ赤十字社に保護されるという事件があった。
さらに戦火が及ぶことを心配したアメリカ赤十字社からの要請により、日本の貨物船が子供たちの受け入れを決めた。
その船が勝田汽船所有の『陽明丸』であった。 陽明丸は貨物船だった為、銀次郎が多額の改造費を寄付して子供たちが航海できる客船仕様に改造された。
陽明丸(船長:茅原基治)は大正9年(1920年)年7月、ウラジオストクまで子供たちを迎えに行き、太平洋と大西洋を約3か月かけて航海した後、フィンランドへ送り届けた。子供たちは同年10月、無事に故郷のペトログラードへ戻ることができたという。
|

児子達を乗せて航行中の陽明丸

詳細は陽明丸ホームページで・・・ |
| 大正10(1921)年 48歳 |
|
○神戸市 市議会議長に選ばれる。
○都市計画視察のため約半年間欧米出張。
○第一次世界大戦後の捕虜等の送還に勝田汽船貢献する。
○平明丸事件勃発 銀次郎事件解決のため欧州で奔走。
○神戸 摩耶山麓青谷に一万坪の敷地に勝田邸を新築。
|
 |
|
平明丸
愛媛県松山市三津浜港船籍
|
第一次世界大戦後は勝田の会社も下り坂になっていたにもかかわらず危険と隣合わせでどの船会社も引き受けてのない大戦中の捕虜の送還にも協力して社有船海久丸をドイツの赤十字社に傭船して独、墺(オーストリア)の捕虜3000人をウラジオストックより故郷まで輸送に任じたり、チェコやトルコ人捕虜を欧州に送り届けるなど採算を度外視した仕事を引き受けた。
そんな中、同年日本陸軍に傭船された平明丸がウラジオストクからトルコ(現)イスタンブールまでロシアで捕虜となっていたトルコ兵1000余人送還する途中地中海のギリシャ沖で当時トルコと交戦中であったギリシャに平明丸が拿捕勾留される事件が起こった。
|
| 大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。 |
|
|
大正12(1923)年9月1日関東で大震災が発生。銀次郎はとにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げるべく素早く行動を起こす。
この時、市会議長だった銀次郎は、知己の素封家や資本家を訪ねまわって、義援金の拠出の要請に奔走した。
義援金の目標額は100万円をめどに考えていたが、最終的には150万円以上寄せられた。
その他、有志一同手分けして商店街をたずねて「在庫品でもワケあり品でも安く物資を提供できないか」と呼びかけ衣料品や食器等50万円相当集積場に集まったが商店主達はこんな時に勘定なんてできないと全部無償提供してくれた。
二日後、メリケン波止場から物資を満載した関東大震災救援船「上海丸」が神戸市長や銀次郎を乗せ横浜へと出港した。船は無事横浜港に接岸し、一行は神奈川県知事に災害のお見舞いを申し上げ、この後も救援船が来る事を伝えた。
横浜市長にも面会した後、野宿をして東京へと向い銀次郎達には、上海丸を始めとして到着する救援船の貨物の分配をする新たな仕事が待っていた。
部屋に篭もり、救援物資のリストをもとに、配分計画を立て、港から物資の配給場所への運送の手配を整える、そうした日々を2ヶ月近く続けた。
この震災で勝田ホール倒壊する。
|
|

|
|
関東大震災はの源地は相模湾北西部、マグニチュード7.9と推定され、死者・行方不明者は約10万5000人に及ぶなど、甚大な被害をもたらした。
この震災は、東京市(現在の東京都)を中心に大規模な火災を引き起こし、東京市の約4割が焼失するほどの被害となった。
|
|
|
| 大正15(1926)年 53才 ~ 昭和4年(1929)56歳 |
|
○国際連盟神戸支部長就任
○神戸船主会会長就任
○勝田汽船経営難に至り整理
銀次郎、巨万の富を握ったのも束の間、大戦終息時の見通しを誤り数年後にはその財産を失い負債を負う。
勝田邸を手放す。 邸前の小住宅に移り住む。
銀次郎の収集美術品(国宝、重要文化財級)の売立総額は昭和4年(1929)2月5日に行われた入札の結果総額七拾五萬円であった。これは、お金の価値を現在に換算すると2億5千3百5十万円に相当する。
所蔵美術品を現在の取引価値にすれば少なくともその数十倍はするであろう。
 |
 |
| 銀次郎収集美術品売立カタログ |
| 早慶 |
|
昭和8年に天理教に譲渡され、ほぼ当時のままで現在も現存。 |
 |
 |
| 雪舟 六祖自画像 |
一休和尚 山水自画賛 |
 |
 |
| 土佐光長 普賢十羅刹女 |
啓書記 楊柳観音 |
 |
 |
| 狩野元信 雨乞龍 |
丸山応挙 爆布 |
日本海員組合の組合長をつとめた浜田国太郎の追悼文 (得山翁小偲録)
|
「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。
彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。
彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」 |
|
|
勝田汽船整理の経緯
第一次世界大戦の勃発で船をつくる鉄鋼がイギリス、ベルギーから入らなくなり切り替えたアメリカとも日米船鉄交換契約ができ鉄を売ってもらう代わりに、造った船の一部を渡さなければならくなりそんなわけで造船所の方は資材が足らん、工期は遅れる戦争は終わる。
一部完成した船も粗製乱造で航海中事故を起こしたり沈んだり当時日本一といわれた1万3千トンの海久丸もバンクーバーで座礁し船体が二つに折れた。
引き渡し期限に間に合わぬ船はキャンセルしてもよいが銀次郎はそれをしなかったトコトンやり通す性分が裏目にでて西宮から神戸沖にかけて勝田汽船の船が停船するハメになった。
勝田汽船は整理に入った、50人ほどいた社員も最後は2人だけとなった。
「銀行の負債は約10行で2千万円前後だった、いくらかずつ返してあとは棒引きにしてもらう計画で銀行を回った。
20万円の負債があった大阪の銀行も5000円で手をうってくれる。それにしても社長に顔だけは出してほしいというから勝田社長報告した...そして銀次郎は挨拶に出向くと銀行側は未練が出て"せめて一万円"といった、勝田は"よろしい"と返事した。
帰ってきてそう言うから、社長、それで手もと(手持ち金)いけますのか。「私(本木社員)はすぐ銀行にとってかえし、また5000円にまけてもらった」
青谷の土地建物は銀行に渡り、建物は天理教に、敷地の一部はのち高校が建った。
勝田は向かいの小さい家に平然として引っ越した。
会社整理には14年までかかった。
豪胆な銀次郎もこの時はかりは「気が楽になった、これで寝れる」と家人にもらした。
|
昭和5(1930)」年57才、衆議院議員トップ当選する。
※当時は市議会議員と衆議院議員の掛け持ちが可能だった。。
昭和8年(1933)60才、神戸市長に初当選
昭和12年(1937)64才、市長再選
昭和13年(1938)65才、阪神大水害その復旧に奔走する。(別記詳細記載)
昭和14年(1939)66才、第2期神戸築港完成。
昭和16年(1941)68才、市長職を退く。太平洋戦争勃発する。
|
神戸海運界の巨頭として、不審の業界が勝田当選へ全力を傾けたという。
昭和10年楠木正成公600年大祭が開催され今に残る湊川公園の「大楠公騎馬像」台座の「大楠像」は勝田の揮毫である。
 |
|
余生を神戸市内で送る内、第二次世界大戦時の戦災に遭って家屋敷を失い、加うるに公職追放を受けた失意の身に病を得、夫人に先立たれて淋しくその生涯を了えた、というまことに浮沈に富波乱多い人生をおっくった人である。
神戸市は、公職追放が解除されるや銀次郎を市の最高顧問に迎え顧問料として月々3万円(現在の30万円)を給付し彼の功績に答えた。
昭和27年4月24日(1952)79才、銀次郎 死去
4月30日 神戸市民葬が執り行われた。
|

王子公園にて勝田銀次郎の
市民葬が執り行われた
|