愛媛県 名字と家紋研究

 
東温市の菅野氏  


○愛媛県では「かんの」と読みます。


 東温市南方曲理「菅野」氏は大三島菅氏の流れです、江戸時代南方曲理に住む菅家の中に「菅」の下に野を付けて菅野(かんの)、原をを付けて菅原(かんばら)、山を付けて菅山(かんやま)、谷を付けて菅谷(かんたに)など自由に名前を付けた。
 明治四年の戸籍法制定に伴い菅原、菅谷は元の菅氏に戻したが菅山は松山に出た。
  菅氏がなぜ南方曲理に住んだか・・・? 菅氏の氏神は少し離れた則之内地区の保免三島神社です「則之内保免三島神社創立伝来由来書」によれば南北朝時代塩ヶ森城主であった河野通郷が大三島大山祇神社を崇敬し則之内に三島神社を建立し「江戸時代松平隠岐守(松山藩主)が古社から現在地に再建した時此処に住んでいた「菅」氏が立ち退いて東温市南方村曲里に移住し曲理原を拓いたと云うことで菅氏が多くその家は今でも菅氏で続いています。
 菅氏は南北朝時代三島神社の神官として河野通郷に大三島から三島神社と共に招かれたのが最初である。
 
 南方竹ノ鼻にも菅家があります、この家は京都北野天満宮の辺りから来た家で、一族の一人は加藤左馬介嘉明に仕え、後に一人が南方に来て帰農した、幕末南方村道向組の組頭はこの家の菅喜三郎で弟仙助は松山に出て旧松山市町一丁目に別家を立てたが本家を憚り性を菅野とした、国務大臣菅野和太郎の生家はこの家である。
 現在東温市では「菅家」約21件に対し「菅野家」107件である。

愛媛県内 菅野氏 分布

松山市

84

今治市

10

宇和島市

0

八幡浜市

2

新居浜市

7

西条市

19

大洲市

12

伊予市

1

四国中央市

1

西予市

2

東温市

107

越智郡上島町

0

上浮穴郡久万高原町

1

伊予郡松前町

4

伊予郡砥部町

2

喜多郡内子町

1

西宇和郡伊方町

2

北宇和郡松野町

0

北宇和郡鬼北町

0

南宇和郡愛南町



戦国時代末期の現東温市井内・則之内・河之内


 


◯戦国時代の東温市
 東温市井内村の小手滝城、則の内村の大熊城は河野氏の一門三十二将の一人、戒能備前守の居城であったが
天文年間(1532〜55)久万の大除城主大野氏が再三領土を侵すため守りの要となった。
天文22年(1553)大野利直が河野氏に背き、戒能氏の主城小手滝城を攻め落としたため、当城に逃れて交戦。

大熊城は、あまりにも堅固なため大野勢は犠牲多く、撤退するが追撃されさらに多くの犠牲を出し、大野氏に味方した剣山城主黒川通俊は馬を射られ、逃げ切れずに自決、その後も大野氏は当城を攻めるが、荏原城主平岡房実、岩伽羅城主和田通興らの援軍を得て、これを撃退している。
 
※戒能備前守通森の大熊城は現在の東温市川内町則之内にあり勢力圏は井内、則の内、南方、北方であった。
(菅)菅野氏は井内村の小手滝城に、佐伯氏は河之内村の八ケ森城、七ケ森城を居城とし河野氏の足軽大将十五人の内に入った。

豊臣秀吉の四国征伐で河野氏の中予支配も終わり戒能氏も下野したが新たな伊予の支配者が現われたがその後もこれ等の武士がこの地の支配者であり、江戸時代になってもこれらの家系が庄屋や組頭を 努めた。

 井内村では初め菅野氏が庄屋をして後で戒能氏に変わった、則の内村では宇和川氏、河之内村では山内氏が庄屋を務めた。

井内村では菅野、戒能、八木、東と云う氏が多く則の内では宇和川、佐伯、河之内では近藤、佐伯の氏が多い。

江戸時代の戸数人口は井内村が150戸、500人、則の内村が350戸、1,500人、河之内村が350戸、3300人で全体が850戸内外、3300人程であった。

この項最後に井内村久尾地区に菅野源六と云う家があって、この源六さんの家が、昔井内村の庄屋であったと言い伝えられている。

東温地区で現在まで血脈を残している氏族について検証する上で重要な役割をはたしたと思われる戦国時代に当地を支配した戒能氏についてもう少し詳しく調べてみましょう。

戒能通運(みちゆき)は(14821546)旧川内町近辺を領する浮穴郡小手ヶ滝城主で河野家五家老、河野十八将のひとりで母は主家河野の女、其の子、戒能通森(15171587)も河野家の家老職と十八将の一人を任じたが主家没落をもって帰農し庄屋となった。

家臣団は通運の代と通森の代で大幅に入れ替わっている。

伊予史談会「戒能家略譜」資料より抜粋

戒能氏は1500〜1585年頃、浮穴郡「子手滝城」を築城し井内、洲之内(則之内)、南方、北方一部を支配していたが、久万山東明神大除の城主大野直昌、度々山越え襲来してきたので戒能通盛、新たに大熊の城を築き常にクニ木と云う上屋敷居住した。

当家譜代の家臣八人あり、其内 八木、高須賀、西、是等の末孫今に至るまで是あり。
 菅(菅野)、東、西田、中タイ等家系展転せり。

昔は八人の家臣、当家の領内に於いて所々に住在し各々一寺一宮を其住に建立して崇奉せり基礎今に至って是あり。
家伝曰、当家累代越智を姓とし或時は河野を名乗り、実名には通の字を伝え家の紋には蕎麦折敷に三文字を付し古は建物に桐の塔を紋とせしかども出陣の時分屋形の御建物と一様たるにより尋常には是を参酌す。

文中の戒能家譜代家臣八人衆の内、菅氏こそが菅野氏の祖先であり家紋の桐紋は建物に使っていた紋を家紋としたと考えられる。

菅(菅野)氏は戒能通盛の有力家臣として仕えた頃は長宗我部元親の伊予侵攻や戦国末期の混乱の最中で伊予守護の河野家も豊臣秀吉の四国征伐で没落し戒能氏も領地を失った。

新しい伊予の領主も小早川隆景や加藤嘉明、松平と変わって松山藩の領地なってからはこの地は村として生まれ変わった。
 統治機構も変わり松山藩の庄屋として始めに庄屋を努めたのが菅野氏であったがその後に河野家家老であった戒能氏が許され菅野氏と入れ替わり戒能氏が明治初期まで庄屋を務めた。
 中世末の領主の子孫、又は、配下の氏族が中心となっている血族的集団が多く、これらの集団は同一の姓を名乗り、本家・分家などと細分化していくなかで、現在ではほとんど血の継りはないけれど系譜をたどると血族集団となる。

当地域内での前の庄屋と伝えられる菅野氏の場合は戒能氏の領地であった井内、南方、北方の一部にその今もってその多くが住まわれている。

参考迄にその他、滑川では、源平時代の名残りをとどめる河野・今井氏、天正(1600年前後)土佐の長宗我部元親の流をくむという曽我部・十亀・黒川氏河之内では、七森・亀甲城主佐伯氏、豪族近藤氏。則之内では鳥屋ケ森城主宇和川氏。戒能家重臣高須賀氏。井内では小手ケ城・大熊城主戒能氏・菅野氏松瀬川では御所城山の篠森氏。添谷の渡辺氏、仙波・寺田氏。北方では花山・仙波氏。南方船野砦の高須賀氏・菅野氏・豪族渡辺氏・松木氏。吉久では相原氏・松末氏等有力氏族が同姓を名乗る集落が各所にある。

村の中で家と家の関係をみると、何世代にもわったて嫁・婿のやりとりが繰り返されたりするところも多いようである。







塩崎氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏 黒川氏
菅氏