周桑郷、庄屋・地主達の系譜
  愛媛県西条市

塩崎氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏 黒川氏
菅氏



 
菅野氏  


「菅野」読み方は関東・東北では、秋田県を除いて「すがの」読みが多いが西日本では「かんの」読みが多く、「すがの」読みは全体の約3割。また福島県二本松市付近では「すげの」と読むようです。


菅野氏の苗字は全国ランキング163位で全国に約133000人で関東から東北にかけて多くみられ福島県:5846、宮城県:2070、岩手県:1620、北海道:1524、東京都:1180、神奈川県:1127、山形県1093、埼玉県:962、千葉県:732て愛媛県250人その内東温市に107人分布しています。(その他全国各地)

各地でのランキングは福島県:6位、宮城県・岩手県:25位、山形県:39位、北海道:97位、愛媛では246位。

『新撰姓氏録』によれば、菅野氏は百済の第14国王貴首王を出自とするという初めは「(百済)王」を氏名としていたようで、敏達天皇3年(574)に牛が「津史(つのふびと)」を賜氏姓され天平宝字2年(758)に「津連(つのむらじ)」と改賜姓、延暦9年に津連真道(後の菅野真道)等が朝臣姓の賜姓を請願してこれが許されたために、居住地に因んで「菅野朝臣」を称したという。

なお、菅野は大和国宇陀郡菅野村(現奈良県宇陀郡御杖村大字菅野)を指すとされる。

貴首王 辰孫王 太阿郎王 塩君(牛定君) 味沙・・・・・・・葛井氏
                                             ┣ 王辰爾・・・・・宮原氏
                                             牛(麻呂)・・・菅野氏

菅野真道とは:平安前期の公卿。百済より渡来した氏族の出身。山守の子。旧氏姓は津連。790年菅野朝臣の姓を賜る。宝亀9年少内記、延暦2年外従五位下、同4年東宮学士となる。図書頭、民部大輔、左兵衛督、左大弁を歴任。同24年参議に任ぜられ、藤原緒嗣と天下徳政について相論。軍事・造作の停止を主張する緒嗣に反対した。その後太宰大弐、民部卿、左大弁大蔵卿を兼任。大同4年従三位に昇る。「続日本紀」の撰者の一人。


愛媛の菅野氏は宇都宮氏や伊達氏に従ってやって来た?

其の一
 藤原鎌足より15代目の末えいにあたる藤原宗円康平6年(1063年)に下野国宇都宮城の初代城主となり、以後その子孫を宇都宮氏と称ました。

宗円の孫、宇都宮宗房系は代々豊後国城井城主となり5代目宇都宮頼房の次男、宇都宮豊房は永仁元年(1293年)に生まれる。豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国守護職(現在の知事に当たる)に任ぜられ、翌年大洲に入り、大洲の地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)に地蔵ヶ嶽城(現在の大洲城)を築城して初代城主になり、伊予宇都宮氏の本城とした。

伊達氏も東北の地から慶長19年(161412月28日秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615318日に板島丸串城(宇和島城)に入城した。

このように当時から東北地方から愛媛にやってきた事実はあるものの下記の管野氏の県内における分布を見る上では彼らが支配していた宇和島では現在は「0世帯」、大洲市では「12世帯」と多くは見当たらない。

愛媛県内 管野氏 分布

松山市

84

今治市

10

宇和島市

0

八幡浜市

2

新居浜市

7

西条市

19

大洲市

12

伊予市

1

四国中央市

1

西予市

2

東温市

107

越智郡上島町

0

上浮穴郡久万高原町

1

伊予郡松前町

4

伊予郡砥部町

2

喜多郡内子町

1

西宇和郡伊方町

2

北宇和郡松野町

0

北宇和郡鬼北町

0

南宇和郡愛南町

 

では現在の管野氏はどこから来たかのか?

伊達氏と共に来た管野氏は居ないものとほぼ断定できるが、宇都宮豊房と共に伊予に来たのではないか?

(一色説)そうです鎌倉末期頃に宇都宮豊房と共に伊予に来たのです。

答えは大熊城にありました。  

大熊城とは現在の東温市川内町則之内にあり戒能備前守通森居城であったが大除城大野紀伊守利直が元の城主である戒能氏を攻め周布郡の黒川氏が興力し黒川氏旗下の佐伯伊賀守惟之の居城とした。

この項、最後に江戸時代の残る逸話を一つ

高田馬場の決闘で伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門の名が出てくる、元禄72月11日江戸郊外戸塚村高田馬場で起きた、村上庄左衛門らによる決闘である。中山安兵衛こと堀部武庸が菅野に助太刀して名を挙げた。 彼は東温市の管野氏の一族です。

其の二

菅野氏は豊前国(福岡県東部・大分県中津あたり)から伊予守護職に任じられた宇都宮氏の一団として最初伊予大洲に来ました。

伊予国・宇都宮氏は下野国(栃木・茨木)・宇都宮氏と同族で、宇都宮氏の分家の一つであり喜多郡に勢力を築いた。
宇都宮豊房は、宇都宮氏本家のある下野国宇都宮二荒山神社から大洲に勧請し、その伊予の宇都宮神社に後に下野宇都宮氏宇都宮正綱が奉納しており、また伊予宇都宮氏の菩提寺の城願寺には宇都宮豊房の位牌が残されていることから、下野国宇都宮氏と伊予宇都宮氏の関係の深さが分かる。

戦国時代、大洲は伊予国内では道後方面を支配する守護の河野氏、宇和郡の西園寺氏に挟まれる位置にあり、国外からも土佐の公家大名・一条氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、後に毛利氏と言った諸勢力が伊予への大きな関わりを持って、さながら伊予の国は戦国期の縮図だった。

 伊予宇都宮氏は河野家との対立が目立つようになった。1568宇都宮豊綱の代に毛利家の援軍を受けた河野家との「鳥坂峠の戦い」で大敗を喫し滅亡した。

この時、主君を失った菅野一族と佐伯一族等は河野氏や配下の戒能氏・黒川氏等に仕え戦国時代最後の時期に伊予国の要といえる場所に配置されます。



戦国時代末期の現東温市井内・則之内・河之内


 

当時、現東温市井内村の小手滝城、則の内村の大熊城は河野氏の一門三十二将の一人、戒能備前守の居城であったが天文年間(1532〜55)久万の大除城主大野氏が再三領土を侵すため守りの要となった。
天文22年(1553)大野利直が河野氏に背き、戒能氏の主城小手滝城を攻め落としたため、当城に逃れて交戦。

大熊城は、あまりにも堅固なため大野勢は犠牲多く、撤退するが追撃されさらに多くの犠牲を出し、大野氏に味方した剣山城主黒川通俊は馬を射られ、逃げ切れずに自決、その後も大野氏は当城を攻めるが、荏原城主平岡房実、岩伽羅城主和田通興らの援軍を得て、これを撃退している。
 

この後に菅野一族が佐伯氏らと共に喜多郡の宇都宮氏滅亡により主君を失い牢人となったが戦に長けた彼らを戒能氏が有力な援軍として迎えたのではないか。

※戒能備前守通森の大熊城は現在の東温市川内町則之内にあり勢力圏は井内、則の内、南方、北方であった。
新たな主君を得た菅野氏は井内村の小手滝城に、佐伯氏は河之内村の八ケ森城、七ケ森城を居城とし河野氏の足軽大将十五人の内に入った。

豊臣秀吉の四国征伐で河野氏の中予支配も終わり戒能氏も下野したが新たな伊予の支配者が現われたがその後もこれ等の武士がこの地の支配者であり、江戸時代になってもこれらの家系が庄屋や組頭を 努めた。

 井内村では初め菅野氏が庄屋をして後で戒能氏に変わった、則の内村では宇和川氏、河之内村では山内氏が庄屋を務めた。

井内村では菅野、戒能、八木、東と云う氏が多く則の内では宇和川、佐伯、河之内では近藤、佐伯の氏が多い。

江戸時代の戸数人口は井内村が150戸、500人、則の内村が350戸、1,500人、河之内村が350戸、3300人で全体が850戸内外、3300人程であった。

 

この項最後に井内村久尾地区に菅野源六と云う家があって、この源六さんの家が、昔井内村の庄屋であったと言い伝えられている。

其の三

東温地区で現在まで血脈を残している氏族について検証する上で重要な役割をはたしたと思われる戦国時代に当地を支配した戒能氏についてもう少し詳しく調べてみましょう。

戒能通運(みちゆき)は(14821546)旧川内町近辺を領する浮穴郡小手ヶ滝城主で河野家五家老、河野十八将のひとりで母は主家河野の女、其の子、戒能通森(15171587)も河野家の家老職と十八将の一人を任じたが主家没落をもって帰農し庄屋となった。

家臣団は通運の代と通森の代で大幅に入れ替わっている。

伊予史談会「戒能家略譜」資料より抜粋

戒能氏は1500〜1585年頃、浮穴郡「子手滝城」を築城し井内、洲之内(則之内)、南方、北方一部を支配していたが、久万山東明神大除の城主大野直昌、度々山越え襲来してきたので戒能通盛、新たに大熊の城を築き常にクニ木と云う上屋敷居住した。

当家譜代の家臣八人あり、其内 八木、高須賀、西、是等の末孫今に至るまで是あり。
 菅(菅野)、東、西田、中タイ等家系展転せり。

昔は八人の家臣、当家の領内に於いて所々に住在し各々一寺一宮を其住に建立して崇奉せり基礎今に至って是あり。
家伝曰、当家累代越智を姓とし或時は河野を名乗り、実名には通の字を伝え家の紋には蕎麦折敷に三文字を付し古は建物に桐の塔を紋とせしかども出陣の時分屋形の御建物と一様たるにより尋常には是を参酌す。

文中の戒能家譜代家臣八人衆の内、菅氏こそが菅野氏の祖先であり家紋の桐紋は建物に使っていた紋を家紋としたと考えられる。

菅野氏は戒能通盛の有力家臣として仕えた頃は長宗我部元親の伊予侵攻や戦国末期の混乱の最中で伊予守護の河野家も豊臣秀吉の四国征伐で没落し戒能氏も領地を失った。

 

新しい伊予の領主も小早川隆景や加藤嘉明、松平と変わって松山藩の領地なってからはこの地は村として生まれ変わった。
 統治機構も変わり松山藩の庄屋として始めに庄屋を努めたのが菅野氏であったがその後に河野家家老であった戒能氏が許され菅野氏と入れ替わり戒能氏が明治初期まで庄屋を務めた。
 中世末の領主の子孫、又は、配下の氏族が中心となっている血族的集団が多く、これらの集団は同一の姓を名乗り、本家・分家などと細分化していくなかで、現在ではほとんど血の継りはないけれど系譜をたどると血族集団となる。

当地域内での前の庄屋と伝えられる菅野氏の場合は戒能氏の領地であった井内、南方、北方の一部にその今もってその多くが住まわれている。

参考迄にその他、滑川では、源平時代の名残りをとどめる河野・今井氏、天正(1600年前後)土佐の長宗我部元親の流をくむという曽我部・十亀・黒川氏河之内では、七森・亀甲城主佐伯氏、豪族近藤氏。則之内では鳥屋ケ森城主宇和川氏。戒能家重臣高須賀氏。井内では小手ケ城・大熊城主戒能氏・菅野氏松瀬川では御所城山の篠森氏。添谷の渡辺氏、仙波・寺田氏。北方では花山・仙波氏。南方船野砦の高須賀氏・菅野氏・豪族渡辺氏・松木氏。吉久では相原氏・松末氏等有力氏族が同姓を名乗る集落が各所にある。

村の中で家と家の関係をみると、何世代にもわったて嫁・婿のやりとりが繰り返されたりするところも多いようである。







塩崎氏 佐伯氏 臼坂氏
芥川氏 一色氏 平塚氏
近藤氏 青野氏 黒川氏
菅氏